「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など数々のヒットドラマを手掛けた橋田寿賀子さん。
2021年4月4日、95歳というお年で亡くなられました。
今回は、そんな彼女の結婚生活と夫に先立たれた過去について迫っていきます。
橋田壽賀子の夫(旦那)はTBSのプロデューサー岩崎嘉一
橋田さんは、1966年にTBSのプロデューサー岩崎嘉一さんとご結婚。
その後、肺がんにより1989年9月27日に夫に先立たれています。
橋田壽賀子と夫(旦那)との馴れ初めは?
1964年、東芝日曜劇場「愛と死をみつめて」が大ヒットし、知名度を上げた橋田さん。
ところが、その後はなかなかヒット作に恵まれませんでした。
脚本家という先行きが不安定な仕事をしている中で、
と感じていたようです。
旦那さんの岩崎嘉一さんは、当時、TBSの企画課長で熱血テレビマンだったそう。
サラリーマンということで、岩崎さんと一緒になれば月給ももらえるからという邪な考えもあったそうなんです。
当時のテレビ局のボーナスは、大変な金額だったそうで、入れた袋が机に立つくらいすごかったそうです。。
2人の出会いのきっかけは、1964年から放送されたTBSドラマ「ただいま11人」の脚本を橋田さんが担当したこと。
そして意外にもアプローチをかけたのは、橋田さんからだったそう。
橋田さんが、一方的に岩崎さんの事を好きになり、仕事も手が着かなくなったそうなんです。
そこで、橋田さんの脚本のドラマを制作をしていたTBSのプロデューサー・石井ふく子さんに泣きつき、仲介してもらえるよう頼んだそうです。
その後、1966年にめでたく結婚。
橋田さんが41歳で、旦那さんは37歳でした。
亭主関白でマザコンな夫(旦那)
結婚相手の岩崎さんは、亭主関白だったそうです。
結婚時の約束は
かなりの亭主関白具合ですが、まだまだ女性の社会進出が進んでいない時代。
これが当時は普通のことだったのでしょう。
そのため、脚本を書けるのは、岩崎さんが出かけている時のみでした。
さらに家事が最優先ということで、家事の合間をぬって仕事をする
状況が続き、いつも時間と戦っていたそうです。
「旦那さんがいつ帰ってくるか分からない、明日は書けないかもしれない、書くのは今しかない」
という常に緊張感を持っていたことで、だらだらと仕事をせずにいい作品を生み出すことが可能になりました。
その後、次々にヒット作を連発する超売れっ子脚本家へとなっていきます。
嫁姑問題が勃発
今となっては妻がアラフォーなんて全然あり得ますが、50年以上前の当時は
世間体などもあり、なかなか受け入れられなかったのでしょう。
旦那の母親はうるさく、「結婚相手は同い年」と言われていたそうです。
そのため、新聞に年齢をごまかして書いたところ、一斉に新聞社へ投書、電話があり、
新聞社にその理由を説明するのが大変だった、という微笑ましいエピソードもあります。
ですが、結婚後は嫁姑問題も勃発しています。
岩崎さんは次男だったため、嫁姑問題には発展しないだろうとみていたようですが、
岩崎さん自身の意向で、実家の近くに家を建てることになったそう。
そんなある日、お義母さんが家に寄ってご飯を食べに来たそうなんですが
と言われたそう。
これに対し、橋田さんは、「塩分は控えめにしています」と言い返したそうですが、
お姑さんは、「口答えして」と陰で親族に悪口を言うようになったそうなんです。
岩崎さんの妹さんからは、
と言われたそうですよ。
この経験が大ヒットドラマを生み出す
- 亭主関白で常に緊張感を持って仕事をしていたこと
- 嫁姑問題を自身で経験したこと
これらが、彼女が人気脚本家への道を押し進めたと言っても過言ではないでしょう。
橋田さんの幼少期は、母1人子1人で育った為、嫁姑問題を身近で体験することはありませんでした。
ですが、実際にご自身が経験されたことで、1976年にサラリーマン家庭での嫁姑問題を描いたドラマ「となりの芝生」を執筆。
これが大きな反響を呼びます。
その後は、1983年にNHK連続テレビ小説「おしん」を執筆。
「おしん」は、最高視聴率62.9パーセントを記録し、“おしんシンドローム”と呼ばれるほどの大反響を呼びました。
世界中で放送され、大人気ドラマとなりました。
1989年にNHK大河ドラマ「春日局」。
女性に視点を置いて、日常生活に埋もれた女性の本音と力強さを浮き彫りにする独特のホームドラマを書きました。
1990年からは「渡る世間は鬼ばかりシリーズ」が放送されました。
約30年にわたって放送される人気シリーズになりました。
最愛の夫を肺がんに亡くす
そんな脚本家人生でとても輝いていた時に、悲劇が起こります。
旦那さんの岩崎さんは、定年退職後に「岩崎企画」を立ち上げ、橋田賞の創設に動いていました。
そんな矢先の1988年秋に肺がんが見つかったのです。
見つかった時には、もう転移しており、お医者様さんからは
と言われたそうです。
このことは、旦那さんへ告知することはありませんでした。
- 治らないと分かっているのに告知するのはかわいそう
- 橋田さん自身がその現実と向き合うのが嫌だった
と、ある種のエゴと、そして自分をごまかすために言わなかったそうなんですね。
その後、大好きだったたばこも好きに吸わせていたそう。
また、旦那さんを病人扱いせず、自宅でふだん通りの生活をしてもらい増田。
- 「家で一日パジャマでいちゃいやだ」
- 「ひげもちゃんと剃ってね」
- 「洋服もちゃんとしたのを着てよ」
など、人様が来ると一緒に食卓を囲み、もう行けなくなるからと、おいしい料理屋さんに食べに行かせたりもしたそうです。
そのため、旦那さんは肺癌であることに気づくことはなかったそう。
そして、旦那さんの岩崎さんは、1989年9月27日に亡くなられました。
最後の治療で新幹線に乗ったとき、これが最後の新幹線になるのかなあと思ったら、その2日後に病院で亡くなった、とのことでした。
現在は、静岡県にある実家のお墓で母親と一緒に眠られているそうです。
ちなみに橋田さんは、父親の実家の愛媛県今治にあるお墓に入ることを決めているそうですよ。
とはいえ、お2人で購入した日本文藝家協会の共同墓もあり、そこにお2人の遺品の時計を入れてもらうそうです。
とても素敵な関係ですね。
橋田壽賀子と夫の間に子供はいる?
橋田さんと旦那さんの岩崎さんとの間には子供はいません。
ご結婚されたのが41歳と、当時にしては高齢でした。
そのため、結婚当初から子供は諦めていたのかもしれません。
ですが、子供がいないのにはもう一つの理由がありました。
仕事に生きた橋田寿賀子の人生観
当時の日本社会では、女性は結婚すれば仕事を辞めるのが一般的でした。
前述の通り、旦那さんとも
「家事が最優先」と言われてきました。
家事が最優先、そして旦那さんが見てるところでは仕事をしてはいけないという中で、
さらに子育てが加わるとなると、想像はできますよね。
旦那さんからの言いつけを忠実に守るのであれば、
脚本家としての仕事が疎かになってしまうことは目に見えています。
もちろん年齢的なものが一番の要素だったかもしれませんが、
やはり仕事人として、譲れないものがあったのではないでしょうか。
そして、橋田さんは、子供について以下のように語っています。
かりに親が健在だったら、私はこう言います。
「老後の世話をするのは嫌だから、自分のお金でちゃんと自分の始末をしてほしい。
その代わり、遺産は一銭も要らないわ」
冷たいですか? でも、もしも子どもがいたならば、
「自分の最期は自分で準備するから、あなたに面倒を見てもらうつもりはない。
自分で稼いだお金は全部使って死ぬから、遺すつもりもない」
と告げたでしょう。https://bunshun.jp/articles/-/3861
世の中の親は我が子のために節約を重ね、少しでも財産を遺そうとしますが、
その姿勢は橋田さんは反対の立場なんだそうです。
また、ホームドラマを書く上で、仮に子供がいたとすると
「お母さんはこんなこと考えてたのか」なんて思われたら、好きなように書けない
とも語っています。
橋田壽賀子の経歴プロフィール
名前 | 橋田寿賀子(はしだ かずこ) |
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生年月日 | 1925年(大正14年)5月10日 |
出身地 | 大日本帝国・朝鮮生まれ、大阪府育ち |
朝鮮で生活をされていましたが、日本で教育を受けるめ、9歳で母親と帰国。
大阪で暮らし始めます。
父親はお土産屋を経営していたため京城府に単身赴任のまま残りました。
その後、日本女子大学文学部国文科を卒業後、早稲田大学第二文岳演劇専修に入学。
学生劇団に所属し役者活動をしていました。
一時期は演劇に夢中になり、女優を目指した時期もありました。
そんな橋田さんは、1949年(昭和24年)に松竹に入社し、脚本部に配属されます。
1964年(昭和39年)「袋を渡せば」でテレビドラマの脚本家デビューし、
同年、東芝日曜劇場「愛と死をみつめて」の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出しました。
まとめ
今回は、橋田さんの旦那さんとの馴れ初めから別れ、
そしてお子さんがいない理由について探りました。
夫に先立たれてからというものの、1人で生きてきた橋田さん。
こうして振り返ると、日本の男性優位の社会の中でいち早く女性として活躍された方なんだと感じました。
ご冥福をお祈りします。