2020年、菅義偉幹部長官が次期総理の有力候補となっていますね。
安倍総理の側近として、長年支えてきた菅義偉さんですが、新元号の令和の墨書を掲げた”令和おじさん”としても知られています。
そんな彼ですが、実は農家出身の叩き上げの政治家で、今の地位を獲得するには紆余曲折ありました。
苦難の連続でもあった彼の生い立ちについてまとめました。
菅義偉の生い立ち〜若い頃から現在まで〜
実家の家族構成
実家の家族は、以下の通り、6人家族。
- 父親…いちご農家
- 母親…教師
- 姉1…教師
- 姉2…教師
- 弟
母親と姉2人の職業は教師でした。
さらに叔父、叔母も教師をしており、まさに教師の家系でした。
一方の父親は、いちご農家を営んでおり、後述しますがいちごのブランド化にも成功しています。
そんな家庭環境の中で
- いちご農家を継ぐのか
- 教師になるのか
の選択を迫られていきます。
では、彼はどのようにして政治家への道を切り拓いていったのでしょうか。
菅家は満洲で幸せな家庭を築いていた
https://dot.asahi.com/wa/2016052700162.html
菅義偉さんの生まれる前の第二次世界大戦中、ご両親は当時満州国の首都だった通化市にいました。
父の和三郎さんは、満鉄職員として働いており、ものすごく待遇がよかったそうです。
官舎があって、お手伝いさんまでいたそうです。
戦時中の暮らしとは思えないですよね。
満洲で、とても幸せな家庭を築いてきた菅家ですが、戦争に負け、一転して引き揚げてくるときは大変だったそうです。
全国有数のいちご農家生まれ
菅義偉さんは、1948年12月6日、秋田県湯沢市秋ノ宮に生まれました。
この場所は、父の和三郎さんにとっての帰郷で、満洲から帰ってきてからいちご農家を始めます。
湯沢市は、現在の地名で、以前は「雄勝郡秋ノ宮村」という地名だったそうです。
湯沢市秋ノ宮村はどんな場所?
湯沢市(ゆざわし)は、秋田県南部に位置し、古くから秋田の南の玄関口として発展してきました。
小野小町の出生地でもあり、人気のブランド米「あきたこまち」の産地としても知られ、新潟の魚沼市と同じく雪深い米どころ。
菅義偉さん出身の秋ノ宮は、秋ノ宮温泉郷という温泉地として有名です。
また、犬っこまつり、小町まつり、七夕絵どうろうまつりなど季節ごとの様々な祭りが開催され、年間約120万人の観光客が訪れています。
なぜ、父の和三郎さんがいちご農家を始めたのかというと…
父の和三郎さんが終戦後
「これからは米だけでは食っていけない」
と、いちごの栽培を開始。
地元の「秋ノ宮いちご」の生産に熱を入れました。
湯沢市は、もともと全国的に知られるいちごの産地ではありませんでしたが、豪雪地帯の寒冷地という気候のため、出荷を遅らせることができました。
これが大成功。
見事、苺のブランド化に成功し、本人の名前から付けた「ニューワサ」という名前で売り出しました。
父の和三郎さんは亡くなるまで「いちご組合の組合長」として、独自の生産、出荷・販売ルートを築いて行きました。
文武両道な学生時代
菅義偉さんの学歴は以下の通り。
小学校 | 雄勝町立秋ノ宮小学校(現在は湯沢市立雄勝小学校) |
---|---|
中学校 | 雄勝町立秋ノ宮中学校(現在は湯沢市立雄勝中学校) |
高校 | 秋田県立湯沢高等学校 |
大学 | 法政大学法学部政治学科 |
菅義偉さんと60年来の友人は、彼の少年時代のことを以下のように語っています。
- 自分が前に出るタイプではなかった
- 人望のある少年だった
- スポーツ万能だった
- 学級委員長をしていた
自然と人が集まる小学生時代
菅義偉さんは、人前に出るようなタイプではなかったものの、自然と人が集まって来るような人望のある少年でした。
秋ノ宮小学校のすぐ近くに住んでいたことから、学校の帰りに友だちが集まっては一緒に遊んでいたそうです。
また、定期購読している漫画を自分よりも先に読ませてあげていたようで、小学生にして他人を優先するという心優しい少年でもありました。
定期購読している漫画は、「冒険王」という月刊の漫画雑誌のこと。
「冒険王」を買ってもらえる子供は、一学年に2~3人いるかどうかということで、菅家が他に比べて裕福だったことが伺えます。
また、地元では有名な運動神経の持ち主でした。
秋ノ宮小学校では、クラブ活動がありませんでしたが、各校代表選手が集う陸上、ミニバスケ、ソフトボール、相撲の地区大会、郡大会で活躍。
足が速くてスポーツ万能だったようですから、さぞかしモテたでしょうね。
スポーツ万能な中学生時代
菅義偉さんは中学生時代、野球部に所属し、守備はサードの1番打者でした。
持ち前の運動神経いを発揮し、「機敏なトップバッター」で切り込み隊長として活躍したそうです。
スイングは、バットを投げ出すような風変わりなフォームで、顧問からスイングを変えるように指導されたこともありました。
ところが、そのスイングを頑固として変えることはなかったそう。
打率が4割もあり、顧問も打撃フォームを変えようとしなくなったそうです。
中学生の時から、自分の思いを貫き通すしっかりとした少年だったようですね。
勉学も得意な高校時代
中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学しました。
高校が遠く、中学の同級生の120人中60人は卒業と同時に集団就職。
残りの60人中30人が実家を継いだため、高校進学率は25%(30人)でした。
菅義偉さんは、この30人のうちの1人だったわけです。
湯沢高校では、野球を続けず帰宅部でした。
というのも、終バスを逃すと数時間歩き帰宅することになるため、部活は泣く泣く断念したということのようです。
スポーツが万能なのはもちろんですが、勉強もできました。
しかも、ガリ勉というわけではなく、勉強の仕方や要領が良くてポイントをつかむのが上手だったそうです。
東京へ集団就職
高校卒業後の進路について
- 家業を継ぐのか
- 教師の道に行くのか
のいずれも選ぶことはありませんでした。
「自分がやりたいことは他にあるはずで、東京に行けばいいことがあるのではないか?」と、家出に近い形で集団就職で上京したのです。
※教師を志して北海道教育大学を受験して失敗し、上京したという報道もありますが、ご本人が否定しています。
集団就職とは?
高度経済成長期に地方の中学・高校の卒業生たちが、臨時列車に乗って大都市の企業や店舗などへ集団で就職すること。
菅義偉さんは、高校に就職先を紹介してもらい、板橋区の段ボール工場に就職しました。
当時は、東京で自分の好きなことをやろうという程度でした。
ですが、そこで初めて、現実がいかに厳しいかに気がついたそうなんです。
東京には、中学を卒業して先上京してきた人がいて、彼らからいろんなことを聞き、
「このままで一生終わるのは嫌だな」
と思うようになりました。
そこでもう一回人生をやり直してみようと、大学に入ろうと決意したのです。
自分がやりたいことは何かを模索し大学へ
菅義偉さんは一念発起し、1969年・20歳の時に法政大学法学部政治学科に入学します。
大学だったらどこでもよく、一番学費の安かった法政大学を選びました。
秋田の実家からは、勘当同然で東京に出たため、仕送りはゼロだったそうです。
入学金を貯めるために、朝は築地市場で台車運び、夜は新宿の飲食店で皿洗いのバイト、アパートに帰れば試験勉強という生活を2年間続けます。
菅義偉さんの努力家の性格が伺えますね。
入学してからも、ガードマンや新聞社の雑用、カレー屋などのアルバイトをして学費と生活費をまかなっていました。
入学する前の2年間、そして入学してからの4年間の計6年間も勉学と並行して仕事をしていたなんて本当にすごいですよね。
さらに、大学では空手部・剛柔流空手道部に所属して部活動もしていました。
当時はいつかは田舎に帰らなきゃまずいだろうな、と思いながら1973年に大学を卒業しました。
サラリーマン時代を経て政治の世界へ
卒業後は、電気設備会社(現:株式会社ケーネス)に就職。
サラリーマンとして働いていましたが、「人生は一度きりだから自分の思うように生きたい」と思い直し、「この世の中は政治が動かしてるんじゃないか?」と考えるようになります。
政治の世界に入ることを決意しましたが、ツテが全くありませんでした。
そこで、大学の学生課へ飛び込み、法政大卒OBの国会議員事務所に紹介を受け、小此木彦三郎元通産大臣の秘書として11年間勤めることになりました。
最初は、秘書が7人いるうちの1人で最も若い末端の秘書で、昔で言う書生さん(住み込みで雑用を任される学生)のような仕事をしていたそうです。
独身でアパート住まいだった菅義偉さんは、毎朝小此木家に来て、そのご家族と朝食を摂るという生活を数年間続けました。
小此木彦三郎元通産大臣の息子だった八郎さんは、当時のことを
「本当に家族同然で、私にとっては兄貴の存在」
と語っています。
実家に戻るか政治の世界を続けるか
いつかは実家の秋田に帰ることも考えていました。
30歳前後のとき、小此木彦三郎元通産大臣に
「事務所を辞めて秋田へ帰る」
と切り出したことがあります。
すると、小此木さんが菅義偉さんの両親に直接会いに行き
「もう少し鍛えさせてはもらえませんか」
と頭を下げたそうです。
ご両親も「お願いします」と答えるほかなく、秘書を続けることになったようです。
こうして、実家へ戻るという選択肢がなくなったことで、本格的に政治の世界に踏み入れることになったのです。
現在の菅義偉さんの活躍ぶりは小此木さんのおかげなのかもしれませんね。
結婚し3人の子宝に恵まれる
菅義偉さんは、小此木さんの秘書時代に結婚されています。
小此木さんの自宅に家事手伝いとして来ていた真理子さんを見て、菅義偉さんが一目ぼれし、交際に発展。
1979年(or1980年)の菅さんが31歳、真理子さんが26歳のときに結婚しました。
学生時代の女性のタイプは、ぽっちゃりめの女性だったので、スレンダーな真理子さんを見て、 周りは驚いそうです。
真理子さんは、「昭和の女性」というイメージがぴったりな人で、表舞台には出てこない方。
ですが菅義秀さんのネクタイは、すべて真理子さんが選んでいたり
官房長官になったストレスと会食で体重が激増した時期には、お手製のスープカレーで夫をダイエットさせており、影ではきちんと支えていることがわかりますね。
子供についても、3人の子宝に恵まれました。
- 1982年(or1983年)に長男
- 1984年(or1985年)に次男
- 1985年(or1986年)に三男
このように、プライベートでもかなり充実していましたが、政治への道に関しても躍進していきます。
並々ならぬ努力が掴んだ横浜市議
1987年・38歳のときに横浜市議に出馬して当選しました。
当時、同じ選挙区から別の自民党の長老議員も出馬を宣言していたため、菅義偉さんは党の公認がなかなかもらえませんでした。
全方位から「出馬を取りやめろ」と反対されていたそうなのです。
ですが、1日300軒も歩き続け、奇跡の初当選を果たします。
このときの経験から「意志あれば道あり」が座右の銘となったそうです。
このときの心の支えになったのは、真理子夫人の存在。
味方がいない中
「支援者はいると信じています」
と言って、菅義偉さんと一緒に戦いました。
そして、横浜市会議員に当選。
2期の間、自民党の若きエースとして活躍。
秘書時代の人脈を活かして、当時の横浜市長だった高秀秀信市長から相談を受けるなど「影の横浜市長」とも呼ばれました。
そしてこの頃から、国が中心となった中央集権体制に強く疑問を持つようになります。
地方分権国家の実現を目指し、国政へ挑戦することにしました。
虎視眈々と狙った衆院選挙
1996年の47歳の時に、衆院選挙で初当選を果たしました。
遅咲きのスタートですね。
横浜市議選でも彼の虎視眈々とした性格が見え隠れしたわけですが
この衆院選挙でも垣間見ることができました。
初当選したのは、秘書を務めていた小此木彦三郎氏の死後5年後のことでした。
当時、神奈川1区の地盤は、小此木氏の三男の八郎氏が受け継ぎ、1993年の選挙に勝利していました。
1996年に行われたのは、小選挙区制が導入されて初めての選挙で、旧神奈川1区は神奈川1区から3区までに分割され、菅義偉さんは2区、八郎氏は3区から出馬しています。
こらだけで見ると問題ないように見えますが、実は2区は小此木氏が圧倒的な強さを誇った西区が含まれていました。
これは、小此木氏の意思を受け継いだ息子の八郎氏を2区から3区に追いやったことを意味します。
小此木氏からは「息子を頼む」と言われていたそうですから、菅義偉さんの行動に驚いた人は多かったようです。
実際、菅義偉さんは選挙区で当選しましたが、八郎氏は選挙区では敗北、比例区で辛うじて当選しました。
見た目は物腰柔らかで、「令和おじさん」とも呼ばれて親しまれていますが
実はかなりの策略家なようですね。
そうでなければ、今のポジションにいないのかもしれません。
派閥で政治は決まらない
菅義偉さんは、数々の派閥を渡り歩いたことから、「渡り鳥」と言われることもありました。
以下が、彼の取った行動です。
派閥で政治をやるべきでないという考えを貫いていたための行動でした。
- 小渕派を離脱し梶山氏を支持
- 加藤の乱で加藤氏を支持
小渕派を離脱し梶山氏を支持
初当選から2年後、1998年に行なわれた自民党総裁選では、所属していた小渕派を離脱して、梶山静六氏を支援しました。
小渕派の実力者だった野中広務氏は「菅だけは許さない」と激怒しましたが、ひるまなかったそうです。
このときは、梶山氏が小渕氏に敗北しています。
その後梶山氏とともに、宏池会の入り、加藤紘一元幹事長を支持していきます。
加藤の乱で加藤氏を支持
加藤の乱とは、加藤紘一元幹事長が当時の森喜朗首相の退陣を求めたクーデター未遂のこと。
2000年5月、小渕首相が急逝したことで、森喜朗氏が首相となりました。
ところが、森内閣の支持率は低落。
危機感を抱いた加藤紘一元幹事長が森内閣打倒に動きました。
2000年11月、野党提出の内閣不信任決議案の採決で賛成の構えを見せましたが、森政権を支える野中広務氏らの逆襲にあって、あえなく失敗しました。
菅義偉さんは、野中広務氏ら当時の自民党実力者5人組が水面下で誕生させた森政権には批判的だったという経緯もあり、加藤氏に同調していました。
あのとき、森内閣で自民党はどんどん衰退の道をたどった。菅さんの危機感はすごかった。先を見て危機感を持ち、なんとかしなければと思うのは誰でも同じだけど、彼はすぐに行動に移す。いまのままの自民党で大丈夫かという気持ちをいつも持っている
https://president.jp/articles/amp/12604?page=1
残念な結果に終わったものの、ここでも派閥より自分の先見の目を信じたのでした。
きっかけの北朝鮮拉致問題
その後加藤氏から離れて、同じ宏池会でも反加藤グループである堀内派(その後の古賀派)に移籍します。
派閥を転々していた菅義偉さんですが、北朝鮮の拉致問題が安倍晋三氏との出会いのきっかけでした。
菅義偉さんが当選二回のとき、自民党の総務会で北朝鮮の拉致問題に触れ「北朝鮮に対する制裁法をつくるべきだ」と発言しました。
当時、小泉内閣の安倍官房副長官だった安倍さんの目にとまり、一度会うことになったのです。
この時、安倍さんは
「教育と安全保障が重要だ」
と言ったそうです。
当たり前のことなのに、これまで会ったことがないタイプの政治家だと思ったそうです。
そこから安倍さんを推していくようになります。
その後は、党内で安倍さんと親しい山本一太氏らと「対北朝鮮外交カードを考える会」を結成し、北朝鮮への経済制裁にかかわる法案作成を進めていきました。
第一次安倍内閣
そして2006年、5年半続いた小泉政権を継ぐ形で、第一次安倍内閣が発足しました。
菅義偉さんは、小泉さんが任期満了する半年前から
「安倍には、国はこうあるべきだという、しっかりした国家観がある。それに改革意欲も強い。俺は安倍を担ぐ。安倍を囲んで食事をしたいから何人か集めてくれないか」
と、安倍さんを総理にすべく動き出しました。
安倍さん擁立の原動力となった「再チャレンジ支援議員連盟」のコアメンバーとなり、安倍参謀の地位を確固たるものとしました。
第1次安倍内閣では、自身も総務大臣兼郵政民営化担当大臣就任を果たしました。
安倍総理の突然の辞任
安倍内閣の発足直後は、高い支持率でしたが、閣僚らの不祥事や辞任が相次ぎ、2007年7月の参院選では自民党が大敗。
同年9月に、安倍さんは病気のため突然の辞任。
その後、自民党総裁選で福田康夫氏が首相となります。
ここでも、福田康夫氏を支持していた宏池会の方針に反し、麻生太郎氏を支持しました。
さらに、2009年の自民党総裁選では河野太郎氏の推薦人として強力に支持しました。
このように、2012年の総裁選で再び安倍さんを支持するまで、さまざまな政治勢力に加担してきました。
特定派閥への帰属意識も、特定個人への忠誠も持っていない菅義偉さん。
状況に対応して、変化を呼び起こす勢力を結集する組織力が高い人物と言えますね。
第二次安倍内閣
そして2012年12月に、第二次安倍内閣が発足。
菅義偉さんは、2007年に第1次安倍内閣が砕け散った後も、
「安倍さんはまだ若い」「もう1回やらせたい」
と周囲に漏らし続けており、再び安倍さんを担ぎ出すことに成功しました。
発足と同時に内閣官房長官に就任し、それからは横浜の自宅で寝泊りすることはなく、首相官邸から近い赤坂議員宿舎住まいを続けてきました。
連続在任期間歴代1位となった安倍さんを支え続け、自身も2020年9月1日時点の在任日数は2807日と、歴代官房長官の中でも群を抜く長期在任記録を更新し続けています。
内閣官房長官に就任したあとは、人事に着手。
日銀総裁の白川方明氏を退任させて、黒田東彦を抜擢したり
郵政民営化にそぐわないと、大蔵省出身の坂篤郎氏を退任させるなど
今の体制に対して常に疑問を抱き、新しい風を吹き込んで行きました。
”令和おじさん”へ
2019年4月1日、新元号「令和」を発表。
以降、“令和おじさん”として知名度、人気ともに急上昇し、ポスト安倍に一躍躍り出ました。
2019年5月には、官房長官として初めて米国ワシントン・ニューヨークを訪問し、ペンス副大統領らとの会談を果たすなど、アメリカ政府から異例の厚遇も受けました。
菅義偉総理の誕生?
官房長官に就任してしばらくの間は、将来的に総理を目指す気はなく
「私は総理を支えるだけ」
とあくまで黒子に徹する意思を示していました。
ところが、第二次安倍内閣が安倍総理の病気による退陣が決まると
次期首相として一躍「本命」の座に躍り出ました。
今後の総裁選が注目されるところですね。
まとめ
菅義偉さんの生い立ちを若い頃から現在までまとめてみました。
紆余曲折ありながらも、自分の意思を貫いていたことがわかりました。
菅義偉総理の誕生はあるのでしょうか。
今後の活躍が楽しみですね。